| 『指輪物語』と反戦〜アラゴルン役ヴィゴ・モーテンセン氏の来日記者会見に寄せて〜 * 春が少しずつ近づいてきてますね。年々歳々、花は同じ、でも花の下に流れる時代は違う……今年の桜が咲く頃、世界情勢はどうなっているでしょうか。できれば、戦争がない世界が続いていますように。そして、来年も。 先日の『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』の試写会では、竹河聖先生とご一緒で観せていただいたのですけれど、映画の後でお茶を飲んでいた時でしたでしょうか、ニューヨークにお姉さまが住まわれている竹河先生から、「ヴィゴはアメリカのトーク番組では・No More Blood for Oil・というTシャツを着て出演して、何故、このTシャツを自分を着ているか、その理由をちゃんと説明してイラク攻撃反対を表明したのよ」と教えていただいたのですが、ヴィゴが日本でも同じTシャツにさらに日本語で「石油の為に血はいらない」と言葉を添えたものを着て記者会見をしたのだ、と知ったのはさらに数日後のことでした(詳しい内容を知りたい方は、http://www.lotr.jp/join/news/pressconf_ttt.htmlをご覧下さい)。 映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作である『指輪物語』は、イギリス人のJ・R・R・トールキンが書いた古典的なファンタジーで、アメリカ的な物語ではありませんし、あの映画もアメリカ資本のハリウッド映画ではあるけれど、監督はニュージーランド人です。その作品を今のアメリカのイラク攻撃になぞらえて、ハリウッド映画であるから、と言って非難の対象にする、というのはそもそも無理があるのでは、と思うのですが……それよりもとても複雑な思いがしたのは、ベトナム戦争当時、この『指輪物語』は、アメリカにおいて逆に反戦の書として読まれていた、という経緯もあったはずだと思うからです。 わたしが最初にこの本を読んだのは、日本で初めて翻訳された1975年くらいのことです。その時に、記事で読んだか兄に聞いたのかよく思い出せませんが、アメリカではベトナム反戦デモで、学生たちが「ガンダロフを大統領にしろ!」というプラカードを掲げてデモをしたんだ、というのを知って、「何故?」と子供心に思ったのを鮮明に覚えています。意味がわからなくて、兄に「それってどういう意味なの?」と聞き返して、「ようするに、ミッキーマウスを大統領にしたほうがマシだ、というようなことだよ」と言われて、ふうん、とそれでも釈然としない思いに駆られたものでした。 トールキンは「『指輪物語』は実際の戦争体験とは関係ずけて欲しくない」と話していたといいますし、オックスフォード大学の言語学の教授、というどちらかといえば世間的には保守的な立場にあっただろう作者は、そうした読まれ方に当惑したかもしれません。ですが、原作を読めば誰でも読みとれると思いますが──『指輪物語』ほど、戦いというものによりいかに人も世界も傷つくか、人の心が弱く愚かであるか、強い力というものは世界を滅ぼしこそすれ、救いはしないということを描いた物語もあまりないと思います。少なくとも、戦いを煽る物語ではありませんね、暗すぎる……そして、わたしも、そんなトールキンから強い影響を受けています。 ベトナム反戦を訴えたアメリカの学生たちが読んだ『指輪物語』では、戦いごとが嫌いで食べることが大好き、でも勇敢な背丈が小さなホビットたちの姿は、自分たちが攻撃しているベトナム人たちに読めたのでしょう。でも、今、『二つの塔』を観る人の幾ばくかには、ヘルム峡谷を救おうと集結するエルフやドワーフ、人間たちの姿は、イラクを攻撃するアメリカとそれに賛同する西欧軍の戦車に見えたのでしょうか……まぁ、ヴィゴが記者会見で言った通りに、ファンタジーというものは、見る人・読む人の心を反映するものですし、それならそれでいいです。 けれど、『指輪物語』という物語には、さまざまな種族が現れ、たとえばエルフ族とドワーフ族は仲が悪いけれど、やがてはエルフのレゴラスとドワーフのギムリが離れがたい親友になっていくように、異種間での愛が多く描かれているのも特徴です。そして、亡きトールキンと彼の妻の墓碑には、今もトールキン本人の墓碑には「ベレン」、彼の妻の墓碑には「ルシアン」と描かれているのは有名な話です。 ルシアンとベレン……これは『指輪物語』の中にもしばしば言及される、エルフと人間の最初のカップルの名前です。アラゴルンとアルウェンがそうであるように、ルシアンとベレンは、ルシアンがエルフ、ベレンが人間であるにもかかわらず、恋に落ちて、結ばれます。トールキンと奥さんも十代の大恋愛の上で結ばれたのですが、ふたりの間にも障害がありました。トールキンは、まだ幼い時に両親を亡くし、母がローマン・カトリックに改宗したために、カトリックの司祭だった養父に育てられているのですが、そのトールキンが大恋愛に落ちた相手の少女はプロテスタントだったのです。日本ではぴんと来ないかもしれませんが、当時のイギリスにおいて、旧教徒と新教徒の間で結婚をする、というのはとても難しいことでした。実際、周囲にはすごく反対されたようですが、ふたりは愛を貫き、結局、トールキンは大学を出た後に、奥さんのほうがカトリックに改宗することによって、ようやくふたりは結婚を許されます。トールキン自身が、文化や宗教の違いを越えて愛を成就する、という困難を自分で体験した人だったからこそ、あの作品があったのは確かだと思います。 カトリックとプロテスタントの宗教対立というと、最近、わたしがもうひとつ見た映画に、スコセッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク』があります。これはどうしても見なければ、と思ったのは、SFマガジンに一年半連載した自分の書いた作品である『エデンに還れ』でも、1863年のニューヨークのアイルランド人暴動を9.11の同時多発テロと絡めて書いていたからです。本当に偶然なんですけれどね。 そのせいで、1863年の、あの暴動については調べられる限り調べました。あれはものすごく悲惨な事件で、日本ではあまり知られてないけれど、アメリカではよく知られた事件だそうです。事件背景には、カトリックとプロテスタントの深刻な溝がありました。それについては興味がある方は、たぶん、今年中には『エデンに還れ』が早川書房から出版されるので読んでいただければ、と思いますが……わたしが映画を見た感想は、これは日本人には物語の背景がわかるのかな、という疑問でした。あの暴動は南北戦争の徴兵の不平等にアイルランド人が怒ったことから起こりましたが、アイルランド人には、南北戦争で北軍が勝って黒人が解放されてしまうと困る事情もありました。当時、アイルランド人はアメリカで、黒人よりも迫害されていたのです……奴隷の黒人には財産価値があるので、死なれれば主人である白人が損をしますが、アイルランド人はアメリカからいなくなってくれた方がいい存在だといって、南部では重労働には黒人ではなくアイルランド人を使っていたほどです。彼らはカトリックで、アメリカを新教徒の自由の新天地と見ていたWASPの白人たちにとって、アイルランド移民はアメリカにいて欲しくない存在でした(同じカトリックのイタリア移民も後にアイルランド人と同じ目に遭います)。さらにアイルランド人は大酒のみで喧嘩っ早く、真面目に働く中国人労働者よりも、雇用主にとっては扱いにくい存在でした。北部ではすでに黒人は解放されていましたが、そんなわけで、ニューヨークでもアイルランド人移民は、黒人・中国人とも仕事を奪い合う最下層に置かれていた……ホワイト・ニガーと呼ばれ、黒人にもバカにされていたそうです。そこに、もし、南北戦争で北軍が勝ち、解放奴隷の黒人たちが大量に北部に流れ込んでくれば、さらに仕事を奪われてアイルランド人は逼迫します。じゃがいも飢饉で故国アイルランドから飢えに追われてアメリカに来たアイルランド人は、ここでもまた飢えに直面させられる、しかも、その自分の首を絞める戦争に金がないがために白人だからと徴兵されて連れて行かれるわけです。アイルランド人たちはついに爆発し、その怒りと憎しみは仕事の競合者であり戦争の原因である黒人に向かい、鎮圧されるまで黒人たちを四日に渡って虐殺した──それが1863年のニューヨークのアイルランド人徴兵暴動です。 アメリカ人のスコセッチ監督が、そうした悲惨な暴動であった詳細を知らないはずがありません。でも、あの作品は、アメリカの社会の暴力と野蛮さを描いていても、憎しみが一片も描かれていません。本当は、黒人とアイルランド人はもっと憎みあっていたはず、アイルランド人とネイティブズ(ここでいうネイティブズは、皮肉にもなっているんだと思いますが、ネイティブ・アメリカン=いわゆるインディアン、ではなく、自分たちをネイティブと称するWASPの白人たちです)の間の宗教対立は激しく、もっともっと憎み合っていたはずです。でも、憎しみは一切なく、その後でスコセッチ監督は、わたしたちはアメリカを愛している、わたしたちがアメリカを作り上げたのだ、と語りかけてきます。『タクシードライバー』の監督が何故これを作ったんだ……と思ったら、この間、「ムービースター」誌で、スコセッシ監督が、ヴィゴ・モーテンセンと同じく、イラク攻撃反対を表明している、と知りました(同じ記事の中で、ユダヤ人であるはずの有名な歌手である女優であるバーバラ・ストライザンドもイラク攻撃反対を表明していることを知りました)。 ヴィゴ・モーテンセンもスコセッチ監督も、移民系のアメリカ人のハリウッド人です。スコセッチ監督はイタリア系だと聞くから、普通に考えるとカトリック教徒でしょうか……。なんだか、このふたつの映画が同じ時期に公開されたのは、奇妙にシンクロしているようにわたしには感じられました。あくまでも、わたしの中で、の話ですけれど。 今の世界は、単純ではありません。正義はひとつ……そんなふうに考えていたら、とんでもない間違いを犯してしまうのが、今の世界です。 そんな中で、ファンタジーが何を語れるのか──ひとつを善とし、ひとつを悪としてしまえば、いずれにしろ誰かが傷つく、そんな中でも、でも、「何もしない」わけにはいきません。何もしなくとも、世界では誰かが傷ついているのですから。何もしないことこそが、一番の悪になりかねない。 トールキンの『指輪物語』にわたしは多大な影響を受けてファンタジーを書いてきました。一番最初に書いた作品である、『バセット英雄伝エルヴァーズ』が自分でも一番影響が強いなぁ、と思います。 『力には、力で──。そうしなければ、何故、人は気づかないのだろうか、自分の犯す過ちを。』……わたしはあの作品の中でそう書きましたが、今もそう思います。 第一次世界大戦・第二次世界大戦で、トールキンは戦争というものを体験した人でした。彼は、神話的世界にこそ、人の真美は現れる、と自らのファンタジー論の中で書いています。 映画『ロード・オブ・ザ・リング』を見た人の心の中にも、それぞれの真美となる想いが生まれてくれますように。そう願わずにはおれません。 |