ピーター・ジャクソンのアラゴルン解釈

 ピーター・ジャクソン、という監督には、わたしはとても満足しています。ある種、映画という表現手段の限界を知った上で、ぎりぎりのラインで「指輪物語」を映像化したなぁ、という意味で、です。

 わたし自身も、挿絵の入る業界で仕事をずっとしてきたのでわかりますが、物語にビジュアルが寄り添う、というのは、物語にとっては大きなリスクです。
 文字、というのは、表現の中でもっとも自由度が高い伝達の手段であり、映画というのは、伝達の自由度が低いビジュアルな分野の中でも、もっとも自由度が低い表現の手段でしょう。
 ビジュアルというものは暴力的なほどに空想の余地を排除しますから、たとえば、作者ですら、挿絵が物語に与えてくる影響から逃れるのが不可能であることがあります。
 まぁ、書き終わった後の作品に挿絵が加わるならともかく、連載中やシリーズものの作品に挿絵がある時など、その物語を作り上げている作者ですら、挿絵に影響を受けないでいることは不可能です──それをわたしは『エルヴァーズ』の時に最初に強く感じました。セイトやフゼットの性格は、美樹本晴彦さんに描いていただいた彼らの「姿」に固定され、作者であるわたし自身までもが途中からそれ以外の姿で物語を想像し、構築することが不可能になっていました。それが良いか悪いかはともかくとして(『エルヴァーズ』では、むしろ、わたしはそれを楽しんで書いていましたし(笑))、映像・ビジュアル、というのはそういう効果があることは確かだと思います。
 ファンタジーというものにビジュアルを否定するならば、「指輪物語」のイメージ構築を自分の中だけで完成したいのなら、そういう人はビジュアル的に再構築したものを決して目にしてはいけないと思います。自由でいたい、という激しい信念があるのならば。でも、わたしはそれを最近は別な可能性として、かなり割り切って捕らえています。ファンタジーは、空想の物語だからこそ、リアルな形で提示された時の「酔い」は激しいものです。ただし、そのリアルな形に提示されたものが、自分がイメージしていた時との差異が激しい時の拒絶反応もまた、激しいのは理解できますが。

 そういう意味では、ピーター・ジャクソンのこの映画作品は、「指輪物語」のファンフィクションのよく出来たものであり、それを楽しめるか楽しめないか、というのは、ピーター・ジャクソンのおたく的感性と同調できるかどうか、ということのような気がします。
 わたしが、ピーター・ジャクソンという監督にyes、という言う一番の理由は、彼はこの「指輪物語」を心より愛しているおたくなのだなぁ、ということが、細部の部分から見て取れる、という、その一点にあり、また、逆な言い方をすれば、彼は確信犯的にそこで「自分の作品」を作っている、ということがわかるから、という点にあります。

 この「指輪物語」は、原作とはずいぶん違うなぁ、という点が結構、あります。
 ピーター・ジャクソンは、原作原理主義者ではなく、映画として面白い作品、今の観客に受け入れられる作品を創るために、かなり原作を改変しています。それの一番大きな要素は、アラゴルンの性格設定を現代風にアレンジしてある、という部分でしょう。
それについてどうしても語りたくなったので、書いてみます。

 最初に、裂け谷で、エルロンドがガンダルフと話している時、こんな会話がありましたよね。
  Gandalf:There is one who could unite them. One who could reclaim the
throne of Gondor.
(人をひとつに纏めることができる者がひとりいる。その者はゴンドールの王
座を要求することができる者だ。)
Elrond:He turned from that path a long time ago. He has chosen exile.
(彼はずっと昔にその道に背を向けている。彼は流浪の身を選んだ。)
 原作を知っている人間は、まず、このエルロンドの言葉に、「え」と思います。最初に映画を見た時には、わたしもなにげなく流して聞いていたものの、それでも、「はい?」と思ったのを覚えています。
 原作のアラゴルンでは、エルロンドの娘アルウェンとの結婚の条件が、彼がアルノールとゴンドールを統一する王座に就くこと、になっています。
 だから。
 エルロンドがアルウェンとのアラゴルンの結婚を認めている限り、エルロンドがそんなことを言う「はず」がないのです。
 原作では、アラゴルンが旅の仲間に加わるのも、もともと、滅びの山までフロドと一緒に行くためではなく(その役目はガンダルフのものです)、ボロミアと一緒にゴンドールに行くので、その途中まで「ついでに」一行を守るためです。つまり、アルウェンとの結婚の道を切り開くために、アラゴルンは勇んで出かけるのです。
 映画では、ボロミアがイムラドリスにやってきて、ナルシルの刃の前で本を読んでいるアラゴルンと初めて出会います。その時、ボロミアが立ち去った後に、アラゴルンをアルウェンが励ますシーンがあります。
Arwen: Why do you fear the past? You are Isildur's heir, not Isildur himself.You are not bound to his fate.
(どうして過去を恐れるの? あなたはイシルディアの裔だけれど、イシルデ
ィアではない。あなたは彼の運命に縛られてはいないわ。)
Strider:The same blood flows in my veins. The same weakness.
(彼と同じ血がわたしの血管には流れている。同じ弱さが。)
Arwen:Your time will come. You will face the same evil and you will
defeat.
(あなたの時が来たのよ。あなたは彼と同じ邪悪と対決するけれど、あなたはそれに負けないでしょう。)
 ここには、原作のエルロンドの会議の時に、フロドに「それじゃ、これは馳夫さんのものなんだ」と指輪を差し出されて、快活にそれを辞退する、力強く、ゴンドールの王となることに自信溢れる、揺るぎない、原作のアラゴルンはいません。

 この、アラゴルンの、指輪に負けた自分の祖先の血を恐れるシーンは、後の複線になっています。

 原作のアラゴルンと、映画のアラゴルンの大きな違いは、原作ではアラゴルンはイシルディアの血筋ゆえに自分が王になることについて確信を持っているのに、映画のアラゴルンは、自分のそうした血ゆえに自分が王座に就くことに意味を見出していない点です。
 けれど、現代の観客にこの映画を見せようとした時には、これは必要な改変であっ
た、と思います。今は、血筋だけで無条件に人が他者を自分たちのリーダーとして認めるような時代ではないので。
 しかもそれだけではなく、こうした改変の先に、ピーター・ジャクソンはアラゴルンを今的に、現代の観客にとって、より魅力的な、深みのある人物に作り上げました。
 ボロミアがやがて誘惑に負け、フロドから指輪を奪おうとするシーンは、原作通り。でも、ピーター・ジャクソンはボロミアに、ピピンやメリーに剣を教えているシーンなどを挿入して、彼が決して悪い人ではないことを強調します。実際、原作よりも映画のほうが、ボロミアの魅力がかなり増しています。原作の中では、ファラミアがいかに彼を愛していたかからしかあまり語られなかったボロミアの良さが、ボロミアが死んだ時点で、観客に伝わるようになっていて、だからこそ、彼が誘惑に負けてしまった〈人の弱さ〉の哀しみはさらに強調されています。
 ボロミアが誘惑に負けた後、原作では、アラゴルンはフロドに会っていません。アラゴルンはあのシーンでは右往左往して、最後には仕方なく、最初の目的通りに、ピピンとメリーを助けた上でゴンドールに向かおう、と決意します。正直の話、あのシーンの原作でのアラゴルンは格好悪いです。
 でも、映画でのアラゴルンはとても格好いい。それは、自分の弱さを認めた、負けを認めた潔さでの格好良さです。
 アラゴルンはフロドに出会い、フロドから指輪を突きつけられて、自分の弱さを認めます。ここに、アルウェンとは会話の複線が生きてきます。もともと、アラゴルンは自分が指輪の誘惑に勝てると思っていない……イシルディアの血を引き、イシルディアと同じ弱さを持つ自分だから。
Frodo:Can you protect me from yourself?! (shows him the ring) Would you
destroy it?
(あなたは、あなた自身からぼくを守れますか?あなたは、これを破壊できますか?)
 こう、フロドから指輪を突きつけられたアラゴルンは、指輪をじっとみつめた後、フロドの前に行って、その前に膝をつきます。最初に見た時、わたしは不覚にもこの意図が読み取れなくて、アラゴルンがフロドを安心させるために膝をついたのかと思ったのだけれど、これは、アラゴルンのフロドに対する心の底からの謝罪(apology)の気持ちを顕した行動なんですね……たぶん。滅びの山まできみを守ると誓ったはずなのに、ここで自分自身に勝てない弱い自分をどうか許してくれ、という。だから、自然に膝を折った──。
 そして、こう言います。
I would have gone with you to the end. Into the very fires of Mordor.
(最後まできみとともに行きたかったんだが。モルドールの火口まで。)
 フロドもそれを汲み取ると、悲壮な決意で言います。
Frodo:I know. Look after the others. Especially Sam. He will not
understand.
(わかっています。他の者たちをよろしく。特にサムを。あいつはこのことを理解してくれないだろうけれど。)
 この、ふたりの決別のシーンは悲しいです。フロドは、アラゴルンを許すと同時に、ボロミアもこの時、許している。ある意味、弱い人間すべてを許してくれている。
 そして。この後、ボロミアは、ほとんど自暴自棄とも言える、ピピンとメリーをオークたちから守ろうとする戦いで瀕死の重傷を負い、そこにアラゴルンが駆けつけます。
 指輪の誘惑に勝てなかったボロミアと、誘惑に勝てるという確信を持てずにフロドと決別したアラゴルン、ふたりの〈人間〉のここでの会話は、なおさらに悲しいです。
Boromir: Frodo. Where is Frodo
(フロド! フロドはどこに?)
Aragorn:I let Frodo go.
(わたしは、フロドをひとりで行かせた。)
Boromir:Then you did what I could not. I tried to take the ring from him
(では、あなたはわたしにはできなかったことをしてくれたんだ。わたしは彼から指輪を取り上げようとしてしまった。)
Aragorn: The ring is beyond our reach now.
(指輪は我々の手の届かないところへ行ったよ。)
Boromir:Forgive me. I did not see it. I have failed you all.
(赦してくれ。わかっていなかったんだ。あなたの任務のすべてを台無しにしてしまった。)
Aragorn:No, Boromir. You fought bravely. You have kept your honour.
(違う、ボロミア。あなたは立派に戦った。あなたの名誉は守られた。)
Boromir: Leave it! It is over. The world of men will fall. And all
will come to darkness. My city to ruin.
(もうわたしのことは構わないでいい。すべては終わった。人の世界は滅びる、すべてが闇に堕ちる。我が都も陥落する。)
Aragorn:I do not know what strength is in my blood. But I swear to you, I will not let the White City fall. Nor our people fail.
(わたしの血にどんな力があるかはわからない。けれど、あなたに誓おう、白き都は陥落させない。我らが民も滅ぼさせない。)
Boromir: Our people. Our people.
(我らが民……我らが民……)
 ここで、ボロミアが、アラゴルンがゴンドールの民を「我らが民」と言ったことに反応して、何度もその言葉を繰り返したのが印象的です。この時、アラゴルンがゴンドールの民を「我らが民」と言ったことで、ボロミアは死んでいく自分の身で、その心の中で、目の前にいるイシルディアの裔だけが最後の希望であることを強く意識したはずだから。そして、彼は自分の剣を手探りで捜し、アラゴルンはそれを彼に渡して、力強く握らせます。ボロミアは涙ぐんでアラゴルンを見上げ、告げます。
Boromir:I would have followed you, my brother. My captain. My king.
(あなたとともに行きたかった、我が兄、我が長、我が王よ)
 もし、生きてゴンドールに帰ったならば、ゴンドールの執政官の長男としてゴンドールの民を率い、誰よりも今のゴンドールの民に愛されていたボロミアに、「王」と認められ、民を託された──その時初めて、アラゴルンはイシルディアの裔という血だけではなく、ゴンドールの王となる自分を自分にも認めたことになるのでしょう。ここは、とても重要な瞬間です。そして、彼はボロミアの額に、王として別れの口付けをします。
Aragorn: Be at peace, son of Gondor.
(安らかに眠れ、ゴンドールの子よ)
 そして、アラゴルンは静かに涙を流します。この涙は、ボロミアに流した涙でもあるし、指輪の誘惑にどうしても勝てない〈人間〉の弱さに流した涙でもあるでしょう。
 ここは何度見ても、泣いてしまいます……。

 こうしてボロミアの最期のシーンで、ともに指輪の誘惑に敗れた〈人間〉として、ボロミアとアラゴルンは連帯します。これが、ピーター・ジャクソンがこの第一作の映画で描きたかった悲しさなんじゃないかなぁ、と思います。これは、原作にはないシーンです。で、これはわたしには原作以上かもしれないほどの感銘を与えてくれました。もちろん、世界はトールキンのものですから、これをピーター・ジャクソンが描けたのは、トールキンの「指輪物語」があってこそ、なんですけれど。
 ここの、ピーター・ジャクソンのアラゴルン解釈は、原作でトールキンが描こうとしていた人の弱さの哀しみを損なうことなく、現代的改変にうまく乗せた上でより以上を表現している……そして、明らかにこれは意図的であるので、ここは考えて脚本を作ったのだなぁ、と思うと本当に感動してしまいます。(……ちなみに、この作品では字幕版の翻訳に対する批判が大きいようですが、わたしも字幕版は、特にapologyの意図で膝をつくアラゴルンのシーンがわかりにくいので、初めての人には吹き替え版のほうをお奨めします。あそこは、ピーター・ジャクソン監督の原作にない意図を表現した重要なシーンなので。)
 でも、難しい……。
 いまだに、わたしはアラゴルンの最後の科白である、
Aragorn:Not if we hold true to each other.
 これに関しては、どう解釈したらいいのかな、と思ってしまってます。字幕では、
「まだ友情が残っている」でしたねぇ。
 true、という言葉は、日本語にすごく訳しにくい。
 直訳すると、「お互いの間に真実が保たれているなら、旅の仲間が壊れてしまったとはいえないだろう」ということなんですが。心の絆は残っているよ、と言いたいのでしょうから、そういう意味では、「友情が残っている」というのは正しいと思うのだけれど、この物語の流れの中ではそれだと唐突に聞こえてしまいますよね……この言葉。
 エンヤのエンディングの歌詞の中にも、このtrue、という言葉はありますね。闇が落ちてきた時にも、あなたの心がtrueでありますように、と。
 このtrue、こそが、この物語の鍵なんでしょうね。
 何にせよ。わたしは、この映画のアラゴルンはすごく好きです。
 たぶん、第二部、第三部、と、アルウェン絡みも含めて、ピーター・ジャクソンの
「指輪物語」が展開されていく部分があるのでしょうが、それも含めて、この作品を楽しみたいなぁ、と思っています。