「……エリック」
   声に応じて、青年は目を開いた。
   黒目がちの大きな瞳……長い睫毛に縁取られた切れ長の双つの眼窩に嵌め込まれた大粒の
  宝石のような。それはまさに宇宙の夜空をすべて吸い込んでしまいそうな、極上の黒い宝石だ。
   桜色の柔らかそうな唇。
   すっきりと鼻筋の通った、形良い鼻梁。
   人形のように整った印象を与える、端正に整った、少女めいた優しげを感じさせる顔立の青年。
   その頬はあまりになめらかで、そんなキレイな青年がいることが不思議に思える。
   青年は、微笑んだ。
  「……何時?」
   時間なんて、何の関係があるのかしら、と少女は思った。
   けれど、腕時計を見る。
  「2時。夜中の」
   ふうん、と青年は答えた。
  「ずいぶん寝てしまったんだね」
  「エリック……」
   ためらいがちに、少女はもう何度目かの嘆願をした。
  「もうやめましょう。こんなことをしても無駄よ……あなたを巻き込んだあたしが悪かったんだわ──
  今ならまだ遅くないわ。あなただけなら、ここから出れる。もう……」
  「しっ……」
   エリックの指が伸びて、少女の口元をそっと塞いだ。
   青年は微笑って、目で黙って、と告げた。
   その眼差しに逆らえず……少女は口を閉じる。
  「ぼくは、きみに何度も時間を尋ねているだろう?
   どうしてこんなに時間を気にしているか、わかる?」
   少女は、首を振った。
  「今日で、きみと出会ってから、丁度、二十日が経ったよ」
  「エリック……」
  「ちゃんと、数えているんだ……毎日、ね。ぼくの時計が動き始めてから、どのくらい経ったか。
   きみと出会う前には、ぼくの時計は動いていなかった。生きていたって死んでいるのと
  同じだったよ。きみと会ったから、やっとぼくの人生は始まったんだ。
   だから……ちゃんと覚えておきたいんだ。たとえ、このまま、きみと一緒に死ぬとしても。何日、
  生きていたか」
   少女の瞳に涙が浮かぶ。しばらく、涙をこらえようと俯き……そして、彼女は弱く、笑った。
  「あなたったら、本当に……目茶苦茶だわ。こんな人だと思わなかった」
  「そう……どんなふうだと思った?」
  「もっと──」
  「もっと、軟弱だって? 外見と同じみたいに?」
  「エリックったら! あたし、そんなこと……!」
   エリックは、声をあげて笑った。そして、身を起こすと、少女を腕の中に抱いた。
  「心配しなくていいよ。勝算はあるんだ。もし──沖合に船が来て、そして、その船が青い旗を掲
  げていたら……そうしたら、ぼくらは助かる。ここから抜け出せるんだ」
  「エリック……あなたはわかってないわ。Dレベルの汚染者なのよ、あたしは。
  どこに行ったって、あたしを自由に暮らさせてくれる場所なんて、ないわ」
  「そんなことはない──少なくとも、ちゃんと治療を受けられるようになるよ」
  「エリック──」
  「それに、きみが汚染者だというんなら、ぼくだって、もう、十分、汚染されているよ。
  だって、もうこんなに一緒にいるんだ。きみと同じ体だ……」
   少女は首を振った。
   Dレベルの汚染者である彼女は、とっくの昔にその汚染が他の人間に影響を与えないための
  処置を受けている。そうでなければ、彼女はたとえエリックが何と言っても、ここで彼と 一緒に
  などいなかっただろう。エリックを──無垢である彼を、自分の汚濁によって伝染させてしまうこ
  となど、彼女にとっても耐えられることではない。
   彼女は、エリックの頬へとそっと手を伸ばした。
   そのなめらかな、陶器のように白く美しい頬へ……そっと。
  (神さま……)
   この世の中に、神なんていない、と──。
   そう、彼女は思っていたけれど、今はその存在を少し、信じられる気がした。
   何故なら、ここに彼がいるから。
   こんなにもきれいな青年がいるから。
   彼女は、自分が助かる、なんて信じていなかった。
   この世界で、自分、という存在を許してくれているのは、この灰色の世界だけ──ただ、使い捨
  ての労働力として、限られた時間、彼女のような者が生きることを許容している、この汚染地域だ
  けだ。
   Dレベルの汚染者は、もとの体には戻れない。
   でも、ここにいる青年は違うし、それに違って良いだけの価値を持っている。
  (それがわかっているのに……どうして、あたし、こんなことをしているの?)
   どうしてって、一緒にいたいから。
   たとえ間違っていようと、こんなことが長くは続かないことがわかっていようと、出来る限り長く……
  彼のそばにいたいから、彼を身近に感じて、彼の視界の中にいたいから。
   この想いは、理屈では宥められない。
  (二十日……そんなに? あたしたち、そんなに一緒にいるの……?)
   奇跡かもしれない、と思う、この幸せは。
   古ぼけた暖炉で、火が暖かく燃えている。
   ずっと昔には、この廃墟にも人が住んでいたのだろう。
   ここもかつてはとても豊かな土地で、この辺りにも高級住宅街があったらしい──今は見る影も
  ないが。
  「エリック……」
   夢見るように、少女はつぶやいた。
   今だけでいいの。
   これが夢だったとしても。
  (お願い……今だけの夢を見せて……)
   そう、それでいい。ひとときの夢だとしても、それは幸せだから──。
 
 
   汚染された、灰色の土。
   その向こうに、今も青い海が広がっている。
   エリックは窓からぼんやりと海をみつめた。
   海は、変わらないように見える。けれど、海の中に生きる生き物の種類も数も、かつての半数以
  下になっているという。珊瑚礁の多くは絶滅した。かつて、生命の宝庫と言われた海すらも、今は
  死のうとしている。エリックは、ほう、と吐息をついた。
   暖炉の側に、少女はうずくまるようにして、寝ている。
   彼女の名を、エリックはいまだ、知らない。
  「知らなくていいの……教えてあげない」
   彼女は言う。何故、と問うと。
  「あたしが死んだ時に、あなたが辛くなるわ。あたしの名を知っていたら。だから、知らなくていい
  のよ」
   そんなのは嫌だ、と彼が言ったら。
  「じゃあ……本当にここから逃げ出せたらね。その時に、教えてあげる。そうしたら……」
  「そうしたら、教えてくれる? 本当に?」
   彼女は微笑んで、うなずいた。
   怯えた瞳、気弱げな面差し。
   どうして──その瞳に囚われてしまったのか。彼女の眼差しは訴えるように彼を見る。その瞳に
  囚われてしまったからには、もう、忘れることはできない……見捨てることはできない。
   彼女は、エリックが眠っている時に一緒に寝ようとしない。
  「眠っている間に引き離されるのは嫌だわ……目が覚めて、あなたがいなかったら。だから、もし
  ──ここがみつかって、あたしが連れていかれる時があって、その時にあたしが眠っていたら、
  少なくとも……あたしを起こしてね、エリック。そうしたら、最後にあなたの姿を心に刻み付けられ
  るわ」
   どうすれば、彼女のこの深い絶望と諦めを拭ってあげられるのだろう──エリックは思う。
   そして、方法はひとつだけ。
   ここから脱出すること……彼女をこのエリアから連れ出すことだ。
   ユーラシア大陸全域が戦闘状態に陥ったのは、今から十数年ほど前のことだった。その戦いは、
  化学兵器を駆使し、細菌を使った〈卑怯な〉戦争だった。
   億の単位の人々が死に、そして、億の単位の人々が細菌に侵された。
   戦後、ワクチンは次々に開発された。
   けれど、ワクチンの生産は億の単位の人々を救済するには間に合わず、その治療の段階でさま
  ざまな格差を生むことになった。特に人口の多い地域では、その格差が大きくなった……人々は
  その生命の健康度によって、人としての価値を階級化されることになったのである。
   まずは、比較的に被害が少ない地域を守るために、被害が大きかった地域が隔離された。化学
  兵器や細菌に侵されなかった地域は聖域化され、そこは一部の富裕階級や権力者たちに独占さ
  れることになった。
   被害の度合いに従って、汚染地域はランク付けされた。
   細菌兵器や化学兵器のある物には遺伝子そのものに影響を与え、優生学的問題を引き起こす
  ものもあった。
   遺伝子治療も可能だが、そのためにはまた莫大な治療費がかかる──そうした問題を抱えた
  億を数える人々を救う余地は、戦後の世界にはなかった。
   それは、被害を拡大しないために必要な処置、と大陸の各国政府によって説明されたが、実質
  的な棄民処置であったし、地域による格差はあからさまになった。
   貧しい地域ほど、見捨てられた。
   そして……世界が汚染地域によって新たなる線を引かれてからすでに十年が立とうとしている
  が、すでに、この体制はひとつの封建的な制度を成そうとしている……。
   汚染された下層階級と──。
   浄化された支配階級と……。
   エリックは、そっと彼女の傍らを離れ、隣りの部屋へと行った。
   そこには古ぼけた机があり、古いタイプの捨てられたパソコンが置かれていた。
   電源のスイッチを入れると、ブウ……ンという鈍い音がして、ディスプレイがぱっと明るくなった。
   このところ、彼女が眠ってしまうと、エリックはずっとそれをいじっていたのだ。幸いにも集積回路
  はすべて生きていて、なんとかそのパソコンでも彼が考えた用途に使うには足りてくれた。
   もともと、コンピューターは彼の得意分野だ。
   選ばれた特権階級の家で、彼は温室で育てられた苗のように……もっと端的に言い表すならば、
  拾われてきた珍しいペットのように、大切に嘗めるように可愛がられて、英才教育を施された。
   自分が実は、Dゾーン──隔離された汚染地域から選別されて連れてこられた者だ、と知ったの
  は、つい、一年前ほどのことだ。
   両親とは血の繋がりがないことは知っていた。父も母も金髪碧眼の白人だったから。
   十八歳になった時、彼は自分自身の出生についての資料の開示を求めた。そして、知った。
  自分が、かつてアジアと呼ばれた地、今はDゾーンとして隔離された汚染地域の出身で、肉親
  はすべて死亡していること、ただし、両親が高名な物理学者であったことから知能の高さを期待
  されて、遺伝子治療の対象に優先的に選ばれ、その後、里子に出されたということを。
   ショックだった。
   汚染地域のことは知っていたけれど、自分とは縁がない世界だと思っていた。
   そして、どうしても自分が生まれた地を見たくなって、この地に侵入し、そして……彼女に出会
  った。
   どうしてか、なんてわからない。
   何故か、なんて自分に問いかけてみても、あまりに空しい。彼女を見た瞬間に、何もかも捨て
  られると思ったのだから。彼女の瞳から涙が無くなるなら、その瞳を乾かせられるのなら、何でも
  できる……そう感じたのだ。
  (うまく……アクセスできるかな?)
   インターネットの回路に侵入するのに、意外に手間取った。そもそも、この地域でのインターネ
  ットの使用にブロックがかかっていたから。それを解除するのに数日かかった。
   パソコンなら、ほとんど手足のように使える。
   確かめたいことがあった。
   食料が尽きかけている。なんとか、早く──ここから脱出したい。それなのに、手配したはずの
  救援の船は着かない。
  (ニッキー……)
   うまくいったのだろうか。
   非合法の船だ。そして……政府はこのところ、隔離政策がうまくいかなくなってきて、不法に汚
  染地域から人が流出することにとても神経質になっている、という。
   船の手配は、親友のニッキーに頼んだ。けれど、それがうまくいっているのか……。
  「エリック……」
   暖かい手が肩に触れた。
   呼ばれて、はっとして振り返ると、彼女がいた。
  「もう目を覚ましたのかい? まだいくらも寝ていないだろう……? もっと眠っておいで」
   彼が言うと。
   彼女は黙って首を振った。
  「あなたといたいわ」
   彼女はエリックの腕に身を投げてきたので、彼は彼女を抱き留めた。
   ふたりはじっと、抱き合った。ふたりきりで。
  「いつまでもここにいたい。船なんて、来なくてもいいわ……」
   彼女はつぶやくように言った。
  「食料が無くなるよ」
  「構わないわ。ふたりで一緒に飢え死にすれば。ううん……やっぱり嫌だわ、飢え死にするのが
  あたしひとりならいいけれど。あなたはそんなふうな死に方をしてほしくないもの」
  「きみと一緒に死ぬよ」
   彼女は怯えたような眼差しをあげる。そして、彼をじっと見る。
  「何を見ているの……?」
   彼が尋ねると、彼女は答えた。
  「夢みたい……だなって」
  「夢……?」
  「そう。何もかもが夢なの。だって、あなたみたいな人があたしの横にいて──」
  「ここにいるよ……」
  「そして、あたしのことを愛してるって言ってくれる。やっぱり、夢だわ」
  「愛してるよ」
   彼女は、弱く、微笑んだ。
  「あなたの、その頬……」
   彼女は、彼の頬に触れた。
  「あなたの、唇……」
   彼女は、彼の唇に触れた。
  「あなたの、その髪……」
   彼女は、彼の髪に触れた。
  「いつも、この世界が夢ならいいって思っていた。こんな世界にあたしが住んでいること。夢も希望
  もなくて、ただ、生きているだけ。こんな世界。それなのに、あたし、今、この世界が夢でなければ
  いいって思っているの、不思議ね。
   あなたがいるだけで。エリック……あたしの目の前に、ただ、あなたがいるだけで。それだけで
  世界がこんなに変わってしまったのよ……」
  「それは、ぼくも同じだ──」
   最初にこのDゾーンの世界に来た時……。
   希望も夢もないこの社会に目を覆いたくなった。それまで彼が生きていた世界と、あまりに掛け
  離れすぎていて。何もかもが灰色で、この世界の重みに耐えられないと思った。
   けれど、彼女に出会った今は、この世界こそが自分のすべてのように感じられる。たとえ、この
  世界がどんな世界であったとしても、彼女がいれば、それだけでいい。
   たとえ、それがどんなに愚かであったとしても。
   おかしい、と言われても。
   ただ、永遠にこの愛だけで。
   他に何もいらない──だから、泣かないで欲しい。
   まだ涙が残っている彼女の瞳を見ることだけが辛い……。
   彼は、彼女の瞼にキスをした。それから身を乗り出して、ふたたび、パソコンのキーボードを操作した。
  「何をしているの、エリック?」
  「ぼくの友人の持っている回路にアクセスしようと思ってね。キーワードを決めてあるんだ。もし……
  うまく行っていたら……よし」
   ピー、と小さな電子音がした。
  「うまく繋がったぞ」
   ディスプレイに、ぱっ、と文字が浮かんだ。
  『エリック/OK/DEL:*3#SEL▲』
   ……すぐにエリックは画面だけを残して、接続を切った。
  「やった!」
  「何?……何なの、エリック?」
  「ちょっと待って」
   文字を組み替えて、暗号を解いて、正常な文に変換する。
   すると。
  『27日、夕刻、接舷』
   今日は二十三日のはずだ。
  「もうすぐだ。もうすぐ……迎えの船が来るよ」
  「いつ……?」
  「あと、四日だよ!」
  「そう……」
   彼女は、エリックの腕の中で笑って、うなずいた。
 
   あと四日……。
   あと四日で、夢は終わる……。
 
   朝、起きると、彼女がいなかった。
  (どこだ……?)
   明るい陽射しが部屋の中を照らしている。
   けれど、世界は空虚で、灰色の世界がそのまま、彼にのしかかってきた。
   まるで最初から彼女などいなかったように、世界はそこにあった。
   彼女の名を呼ぶことさえできないことに苛立ちつつ、エリックは彼女の姿を捜した。
  (一体、どこに……!)
   埃だらけの部屋の中に、ぽつん、とパソコンが置かれている。
   暖炉には、火が燃えている。
  (どこなんだ?)
   彼女がいないと、すべてのものの輪郭が脆く消えていくように感じてしまう。
  「……くそ!」
   船が来るのは、明日のはずだ。それなのに……!
   窓から外を見た彼は、彼女の姿をみつけた。ふたりが隠れ住む廃墟の下の、階段の入り口に
  立っていて、中へと入ろうとしているところだった。
   手に、何やら大きな袋と籠のような物を抱えている。
  「どこへ行っていたんだ!」
  「……エリック」
   彼女を部屋の中に入れ、思わず、周囲に目を光らす。
   海に接する沿岸部のこの辺りは立て入り禁止区域になっているので人影はないが、非汚染地
  域への不法な越境者を監視するためのパトロールがしょっちゅう、辺りを徘徊している。
   つん、とオレンジの匂いがした。
   彼女は、食料を詰め込んだ袋を持っていた。
   食料は、昨日からすべて底をついていた。
  「食料なんて……! 明日になれば迎えが来る。そんな無茶をして、もし、みつかったら……!」
  「でも。今夜がここでの最後の夜でしょう? あたし、あなたとパーティを開きたかったの、ここで。
  ねぇ、あした、船が来るのだったら。お祝いをしましょう。あたしたちふたりの未来のために」
   彼女は落ち着いて、告げた。
   パンにチーズに……ワインもあった。
  「どこから、こんな……?」
  「手に入れることは出来るの──いろいろと手はあるわ。外へ出る船を手配することができるよう
  に、ね」
   その夜……。
   廃墟の中でみつけたキャンドルに灯を点し、ふたりはふたりだけの小さな晩餐を開いた。
   パンにチーズを乗せ、ワインを飲むだけのささやかな宴。でも、ふたりは幸せだった。
  「あなたがあたしと恋に落ちたのは、間違いだったわ……」
   でも、エリックの腕の中で、彼女はつぶやいた。
  「何故、そんなことを言うんだ?」
   エリックは怒ったように言い返す。
  「そんなこと、誰が決めるんだ。何が正しくて、何が間違っているか、なんて」
  「だって、あたし、あなたにふさわしくないもの」
   彼女は細い声でつぶやく。
  「でも、あなたと会えて幸せだったの。それだけは本当。とてもとても幸せで……だから、生まれて
  きて良かったって思うの。こんな幸せを感じることができたんだもの。ありがとう、エリック。あたし、
  今、誰よりも幸せだわ」
  「幸せはこれからだよ、お馬鹿さん。これから、きみは誰よりも幸せになるんだ」
  「誰よりも幸せに……?」
   彼女は、くすっ、と笑った。
  「そんなこと、必要じゃないわ。だって、今、あたしは誰よりも幸せなのよ。誰が誰よりも幸せ、なん
  て、ヒトが決めることじゃないわ。今のあたしが、誰かから見て、どんなにみじめに見えていたって、
  あたしにはどうでもいい。どんなに不幸そうに見えていても、構やしないわ。あたしは、不幸じゃな
  いもの。
   そうね、非汚染地域に育っていて、何不自由なく育っていれば、もっと幸せだったの? でも、そ
  んなこと、どうでもいいの。ここでいいわ。あなたがいるから。他に何もいらないの……エリック──」
  「……うん?」
  「あなたを、愛してるわ……」
  「ぼくも。きみを愛しているよ」
   そう、誰かが誰かよりどれほど幸せかそうでないか。そんなものを決める基準がどこにあるだろう?
   どんなに愚かに見える恋だとしても、今はただ、きみだけしか目に入らない……。
   人にはどう見えようと、幸せなのだから。
  「だから──泣かないでくれ」
   エリックは、彼女を抱きしめて、つぶやいた。
 
 
   沖合に、青い旗を掲げた船の姿が見えた。
  (来た……!)
   あの船に乗れば、ここから出れる。ふたりの新しい生活が始まるはずだ。
   まだ、船は近くに寄ってこない。
  「エリック──」
   彼女は、彼に身を預ける。
  「エリック、あなたを愛しているわ……」
   彼女はそう、ささやきかける。
   彼もまた、緊張して彼女の手を握り締める。この手を離すまい、と思う。たとえ、どんなことが起こ
  っても。
   彼は、廃墟の隠れ家の窓から外をうかがった。
  (何……だ?)
   荒廃した路上に、この三十日近く、まったく見なかった人影があった。
   黒っぽい制服を着ている。あれは……!
   とっさに、体の方が動いた。
  「……どうしたの?」
  「いいから! 来るんだ!」
   ──公安警察だ! おそらく、あれは……!
   もしかしたら、沖合の船をみつけて、パトロールに来たのかもしれない。なんとか夕方までどこか
  に隠れて、そして……。
   ふたりで階段を駆け下りる。
   この何週間もお互いの声とお互いの気配しか感じてこなかったのに、その平和な空気が誰かに、
  何かによって乱されたのが肌で感じられた。
   誰かがやってくる。
   そして、その者たちはふたりのささやかな幸せを壊そうとしている。
  「……どこにいる? 隠れても無駄だぞ! 出て来い!」
   声が聞こえてくる。
   エリックの腕の中で、彼女がきゅっ、と身を縮めた。その体を、彼は強く抱きしめる。
   息をひそめ、地下室に隠れた。
   建物の外にも人がいる気配がしたからだ。へたに外に飛び出せば終わりだ、とそう感じた。
  (あいつらはぼくらの姿を見ていないはずだ。だとしたら……見られていないのだったら、なんとか
  ここで──やり過ごせないか……)
   彼の腕の中に、彼女はいる……。
 
 
  (エリック……)
   少女は、美しい彼を見ている。
   ずっと、彼を見ていよう、と彼女は思った。死ぬまで。この体から命が抜けて、そして、魂がこの
  世界の空気と同化するまで。
   本当に、どうしてこの人はこんなに美しいのかしら、と彼女は思った。
   美しいすべてのものが死に絶えてしまったこの世界に、それでもまだ、こんなにも美しいものが
  残されていたなんて。
   そして、その彼とあたしは一緒にいる……。
   神さま、感謝します、この世界を作って下さって、と彼女は思った。この人がここにいる。それ
  だけで、この世界の醜さのすべてを肯定できる、と彼女は思った。
   心臓の鼓動が感じられる。微かな息が、感じられる。
   ああ、あたし……生きているわ、と彼女は思った。
   この時のために、あたしは生まれてきたのね──と。
 
 
   足音が近づいてくる。ふたりが隠れている小さな空間に。
   影が、光をよぎる。
   そして……銃声がした。
   二度。
   エリックが覚えているのは、彼の腕の中で銃弾の衝撃に跳ねた彼女の体の感触……。
   そして、愛してる、とつぶやいた、彼女の最後のささやきだけだ。
 
 
  「エリック……」
   気がつくと、彼はベッドの上で、友人や両親の顔に囲まれていた。まるですべてが夢であった
  ように、彼女の姿はそこにはなかった。
  「彼女は……?」
   彼が尋ねても、誰も答えてはくれなかった。
   やがて、さまざまなことを聞かされた。
   ふたりのうち、蘇生措置を取られたのは彼だけだったこと、そして彼女は死んだこと。
   あの時、脱出しようとする彼らのことを通報したのは、彼女自らであったらしい。あの青の旗の密
  航船が脱出できる成功率はきわめて低く、ほとんどの船は海の藻屑に消える……その船に乗って、
  彼をも自分と運命をともにさせることに彼女は耐えられなかったようだ。
   十年前に終結した戦争では、実にさまざまな細菌が使用された……幼かった彼女の体を侵した
  細菌は、その後、さまざまに研究を重ねたにもかかわらず、いまだ、ワクチンが発見されていない
  種類のもので、彼女はたとえ、汚染地域を出たとしても、余命はいくばくもなく、そのことは彼女自
  身も知っていたという……。
   彼女は、名を告げぬままに死んだ。
   だから名を尋ねることもできない彼女を、彼は愛しつづけることになった。