Sep,11th 別れの日
飛行機は十時過ぎだったけれど、念のために早く起きて、早めの朝食を摂ることに。でも、幸いにも、MさんもAさんご夫妻も、それに昨日の夜のライヴには風邪気味、とのことで部屋から出てこられなかったHさんにも朝食の場でお会いすることができました。特にHさんにはお世話になったので、別れのご挨拶ができて良かったです。 相変わらず、ロビー活動で引っ張りだこのHさんですが、朝食の席に着くと、苦笑いをしながら、こんなことを。昨日の夜、ひとりで部屋で休んでいると、初日に会った人民日報のオスロ支社の記者から電話がかかってきたのだそうで。彼はもうオスロに戻っていたらしいのですが、電話をかけてきた用件はというと、さりげなく、インディペンデェント・チャイニーズ・ペンがどんな活動をしているのか聞きだそう、ということだったらしく──。諜報活動ってことなのかなぁ、と。まぁ、人民日報の記者にしてみれば、それが仕事でしょうけれど。「何も話さなかったけれどね」と、Hさん。でも、日本人ならぺらぺらしゃべる、と思っているのかなぁ……など、なんとなく複雑な気分に。でも、その後、Hさんがおっしゃった、「まぁ、でも、これからの日本の若い世代は、こういうロビー活動とかネゴシエート(交渉)が出来るようになっていかないと、生き残れなくなるよね」──それはそうかなぁ、と。そのためには、最低でも英語、それプラス、もう一カ国ぐらい世界的に使われている言語をしゃべれないとアドバンテージはないかも。なにしろ、日本語というのは、日本、という、限定した地域でしか使われていない言語だし。そりゃ、日本人の観光客相手に、各国のデューティ・フリーのショップには日本語ができる店員がいるかもしれないけれど、そんなのは日本語が通用する、ということにはなりませんしね。 さて。朝食の席には、あのチベットの青年たちも降りてきました。朝食を終えて食堂を出ると、エレベーターの下のところでふたりは待っていて、一緒にエレベーターに乗ると、わたしたちの部屋まで一緒に行っていいか、と尋ねてきます。何のためかなぁ、と思いつつも、いいよ、と答えて、部屋の中に招き入れると、ふたりはおもむろに、シルクとおぼしき、透かし模様の刺繍が入った真っ白のマフラーのような布を取り出しました。それは、チベットの風習なのだそうです、旅行く人の首にその白い布を掛けて、旅の平穏を祈ってくれるのは……。ふたりは、一枚ずつ、その布をわたしの首に掛けて、両手を合わして祈ってくれました。 びっくりしたとともに、本当に感激しました。 その後、ふたりはわたしの荷物を階下まで運んでくれ、タクシーでホテルを出るまで見送ってくれました。 思いがけない祝福に、わたしはすっかり気持ちが高揚して、最後のトロムソの風景をタクシーの中から見ることになりました。たぶん、二度とこの小さな町に来ることはないだろうけれど──ずいぶん濃い日々だったなぁ、と思いつつ。 トロムソからはオスロに行き、それからコペンハーゲンに向かう予定でした。 でも、そのトロムソからオスロへと向かう機内でも、ちょっとした驚きが。隣りの席に座った女性が、サーミの女性かなぁ、と思う方だったんですよね。髪は赤くて、ちょっと小柄……ところが、話している相手の人を見ると、昨夜のライヴでパーカッションをやっていた人にそっくり。もしや、と思って、話しかけてみると、マリ・ボイネさんその人でした。 オスロに着くまでの短い時間でしたけれど、少し、英語で話しました。昨日、子供たちにヨイクを教えるイベントに出たこととか。サーミの言葉での自己紹介もしました。マリ・ボイネさんは、「あなたは、アイヌの人?」と尋ねてきました。違うけれど、日本は血が混じり合っている島国なので、少しならアイヌの血が入っているかもしれない、と答えました。なんでも、韓国と中国では公演をしたことがあるそうですが、日本には来たことがない、とのこと。是非、日本にもいらした下さい、とお願いしました。こんな幸運があったのも、チベットの彼らがくれた白い布の御利益なのかも。 そうして、わたしはトロムソを離れました──。 |